大脳は種々の神経組織の中で、ヒトを含む哺乳類に於ける発達が特に顕著な組織です。中でも大脳皮質と呼ばれる脳表面の大部分を覆う組織は、精神活動を司る細胞の集合体で、多種多様な神経細胞(ニューロン)、グリア細胞等により構成されています。この複雑な構造を持つ大脳皮質も発生過程を遡れば、単層の細胞から成る単純な組織(神経上皮)に行き着くことが解っています。また、大脳皮質の発生過程で必要な遺伝子が、滑脳症、小頭症等の疾患原因遺伝子として幾つか同定されています。しかし、この神経上皮の細胞がいかにニューロンとしての複雑な形態を獲得し、さらに大脳皮質という複雑な構造の組織を形成して行くかは依然として大きな謎です。私たちは、ヒトの高度な精神活動を可能にする生命システムの理解と、大脳皮質の損傷や形成不全に起因する疾患への対処法の開発を目指して、この謎の解明に挑んでいます。
私たちはこれまでにマウスをモデルとした研究を行い、細胞内のシグナル伝達を担うDLK-JNK経路が、大脳皮質を構成する代表的な神経細胞である投射ニューロンの発生過程において、神経伝達の出力端子となる軸索の形成を可能にする要素の一つであることを突止めました。現在はこのDLK-JNK経路が如何にこの重要な役目を果たすのかについて研究を進めています。
JNK (c-Jun N-terminal kinase)はMAPキナーゼファミリーに属するタンパク質リン酸化酵素で、線虫から哺乳類に至る動物門で保存されており、細胞の増殖、分化、アポトーシス、planar cell polarity等様々な生命現象を制御するシグナル伝達因子です。
私たちはDLK(もしくはMUK)と呼ぶタンパク質リン酸化酵素が哺乳類の細胞中でこのJNKの活性化を誘導するMAPKKKとして機能することを見いだしました。DLKはMLK (mixed lineage kinase)と呼ばれる一群のタンパク質リン酸化酵素のメンバーで、MLKの他のメンバーもDLK同様JNK経路のMAPKKKとして機能します。MLKは線虫やショウジョウバエにおいても保存されており、ショウジョウバエにおいてはJNKを介して胚の背部閉鎖及び幼虫のシナプス(神経筋接合部)形成を制御していることが米国の研究グループから報告されています。
DLKは主として神経組織に発現しており、発生過程にあるマウス大脳皮質に於いては移動中の若い神経細胞の細胞体や成熟の途上にある神経細胞の軸索に存在します。そしてこういった部位には活性化されたJNKも多く存在します。成熟した神経細胞においては、JNKの活性化が細胞死の一つの形態であるアポトーシスを誘導することが知られています。しかし若い神経細胞におけるJNK活性化は必ずしもアポトーシスに結びつかないようです。大脳皮質の発生過程においてもDLKや活性化したJNKを発現している細胞が全てアポトーシスを引き起すという事はありません。私たちはDLK遺伝子のノックアウトマウス及びDLK遺伝子とJNK1遺伝子のダブルノックアウトマウスの表現型を詳しく解析した結果、このような若い神経細胞では、DLK-JNK経路が細胞移動や軸索形成を制御している事を見いだしました。
小頭症や滑脳症の他、大脳皮質の構造異常に起因する疾患の原因遺伝子或は関連遺伝子として同定されている遺伝子の多くは細胞骨格や細胞内輸送の制御に係るものです。そしてこの細胞骨格と細胞内輸送は大脳皮質を形成する細胞の形態的、機能的分化の基盤となる細胞極性(下図参照)の形成において中心的役割を果たしています。ここで特記すべき事は、こういった遺伝子の産物(タンパク質)の中にはJNKの基質として同定されているものが複数存在するという事です。私たちはこういった事実を手掛かりにしつつ、分子生物学、生化学、細胞学、組織学的手法を駆使してDKL-JNK経路の生理機能、すなわち細胞移動や軸索形成の制御を支える分子システムを明らかにしようとしています。そしてこういった研究を通して、大脳皮質という複雑な組織の形成を可能にする分子システムの理解に必要な新しいコンセプトの抽出、さらには精神神経疾患の発症機構の解明やこれの予防、診断、治療法の開発に寄与する要素の特定を目指しています。