教室関連

教室の歴史

1. 沿革

眼科学教室は昭和19年、初代教授である糸井素雄先生のもとに、数人で始まった。昭和23年、2代目教授の大熊篤二先生が就任し、先生の活躍により、漸次教室の大系も整い、年ごとに発展して、同門生もその数を増やしてきた。そして、3代目教授として、昭和48年より田中直彦先生が教室を担当することになった。これら、歴代教授の実績と時代の要請と相まって、ここ十数年来、続々と眼科希望者が入局し、同門生も着実に増加してきた。昭和63年、田中教授が在職途中に病気のために他界され、その後、1年8か月の間、教授不在の状態で、河野助教授の元に変則的な教室運営を余儀なくされた。昭和天皇の崩御により年号も平成に改まり、その元年9月から、4代目教授大野重昭先生が就任し、研究・臨床両面において、更なる充実時を迎えた。平成12年9月大野教授の異動により、平成14年1月、5代目教授として、水木信久先生が就任し、ますます国の内外に発展が期待されている現況である。

2. 糸井素雄 教授時代

(1944年~1947年9月)

糸井素雄教授

 眼科学教室の昭和19年、初代教授は糸井素雄先生で、当時は医局員も数人という小所帯であった。糸井教授は当時戦災に遭われたため、眼科医局を半分に仕切った部屋にご子息と寝泊まりされ、診察や講義、ポリクリで学生を指導されていた。
 糸井教授の講義は、ユーモラス、且つ理解しやすかった。ポリクリではスピーディーな診断でポイントを素早く明確につかみ、的確な治療へと進めていかれた。患者さんからも絶大な信頼があった。開学間もない草創期であり学内からも大きな期待が寄せられていたが、ご家庭の事情で惜しまれながら京都へ帰られることとなった。

3. 大熊篤二 教授時代

(1948年2月~1973年3月)

大熊篤二教授

 当時の高木逸磨学長の強い懇請により、2代目教授として大熊篤二先生が昭和22年12月に赴任された。謹厳実直な先生であり、温和な姿の中にも畏敬される風情をお持ちであった。糸井教授の在任期間が短かったため、実質的には大熊教授が教室作りの第一歩を踏み出されることになる。教授はじめ教室員が一団となって診療に当り、昼食も2時、3時、時には5時となることも珍しくなかった。その努力の甲斐あって1~2年を経ずに珍しい症例も多数来院するようになり、学会発表も出来るようになった。
 大熊教授の診療姿勢は一人一人手に取るような丁寧な指導で、臨床家としては勿論、眼科学はいかに学ぶべきかという点につき厳しく指導された。同時に、先生の診療の後ろ姿を見せて頂いているだけで、自ずと多くのことを教えられた。
 研究面においては石原忍先生の指名により当時の軍医学校にて色覚を研究、引き続き石原色盲検査表の改定にとりかかられる一方、色覚異常の程度を分類することに着目され研究を続けられた。
 色覚研究は国内は勿論、海外でも有名で昭和37年にはインドのニューデリーで開かれた国際眼科学会で「新しい色覚異常程度判定表」を発表された。また、昭和25年には大熊式色盲色弱度検査表が、昭和56年には色覚の程度をより分類可能な新色覚異常検査表(検出表、程度表)が完成され出版された。
 大熊教授は25年にわたり学生教育、教室員の指導、診療、研究に従事され、眼科学教室の基礎をつくられた功績は真に多大で、一大偉業を成し遂げられたと言える。

4. 田中直彦 教授時代

(1973年5月~1988年1月)

田中直彦教授

 大熊教授が昭和48年に退官された後、初めて本学出身の新進気鋭の田中直彦教授が誕生した。田中教授の後輩思いの人徳もあり、教室への入局希望者もそれまではほとんど数年ごとにやっと入る程度であったものが、毎年数人ずつコンスタントに入るという盛況で、教室はますます診療、教育、研究の各分野において、大活躍の時代に入った。それに伴い、対外的には県内各地の有数の病院に医長および医局員を送り出し、それぞれの地域で活躍しているのは周知のごとくである。特に、これら関連病院の大半が田中教授時代に獲得されたものと言っても過言ではなく、適時を逃さず、歴史的責任を果たしたと言える。眼科医局の歴史を通視して、この点は田中教授の特筆すべき業績の一つである。
 田中教授の研究テーマは眼感染症であった。角膜細菌感染症の要ともいえる緑膿菌性角膜潰瘍、および先進文明国での角膜失明の代表である角膜ヘルペスの基礎的、臨床的研究が中心であった。特に、先生が眼感染症を志したのは、ある角膜ヘルペス患者との出会いであり、その病態生理の解明、治療の確立には終生、執念を燃やしておられた。志し半ばでの他界はいかにも残念であったと思われる。

5. 大野重昭 教授時代

(1989年9月~2000年8月)

大野重昭教授

 田中直彦教授が、昭和63年1月に逝去された後、年号が平成と変わるとともに、平成元年9月に大野重昭教授が就任された。大野教授は、ぶどう膜疾患の研究に疫学的、免疫遺伝学的研究方法を早くから導入され、眼科におけるこの分野の世界的先駆者の一人であった。特にベーチェット病に関する研究では、疾患とHLAの相関に関して早くから着目され、多くの研究業績がある。また、人柄は明瞭、温厚で礼儀正しく、自由な討論を尊ぶため、医局員をはじめ、看護師や医療スタッフよりの信望は非常に厚い。教育熱心で講義も非常にわかりやすく、学生に人気があり、毎年入局希望者が約10人、大学院入学者も多数迎えた。
 着任後、故田中直彦教授の念願であった医学部の完全な移転が行われ、平成3年7月に医局が浦舟より金沢区福浦に引っ越し、8月1日に横浜市立大学医学部附属病院(福浦)が開院、横浜市立医学部病院(浦舟)は、横浜市立大学医学部附属浦舟病院(現 横浜市立大学附属市民総合医療センター)と改名され存続となった。
 大野教授在任中には、第33回日本眼感染症学会、そして、第4回国際ぶどう膜炎シンポジウムを横浜にて主催する機会を得た。これは、糸井教授、大熊教授、田中教授をはじめ諸先輩の築かれてきた礎の上に、当教室が大きく花開いたと言える。

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