「質量分析」領域

「蛋白質翻訳後修飾解析のための質量分析とその周辺技術の開発」 平野 久

1.研究の背景と目的

蛋白質は、生体内で合成された後、様々な翻訳後修飾を受ける。そして、多くの蛋白質は、これによってはじめて本来の機能を獲得する。従って、翻訳後修飾の異常は蛋白質機能に変化を引き起こし、様々な疾患の原因になる。しかし、翻訳後修飾異常と疾患の関係に関してはまだ多くは明らかにされていない。その理由は、翻訳後修飾の分析や評価手法の不十分さにあった。そこで、本研究では、翻訳後修飾異常と疾患の関係を研究する拠点の基盤となる先端的分析技術を創出、開発、あるいは体系化することを目的とした。

2.主な研究成果

これまでに血漿蛋白質3,000を検出・同定する技術の開発、リン酸化ペプチド濃縮と質量分析装置のスキャニング法の改良によるリン酸化蛋白質、リン酸化部位検出技術の開発などによって多数の蛋白質の大規模かつ網羅的な解析が可能になった。さらに、新規な翻訳後修飾ペプチド解離法、電子捕獲解離法の開発、リン酸化アフィニティー電気泳動を応用したリン酸化蛋白質の質的・量的変動モニタリング技術の確立などによってリン酸化部位を確実に解析できるようになった。また、グルコシルホスファチジルイノシトール(GPI)アンカー結合蛋白質の分析法も確立した。一方、質量分析装置を用いたアセチル化、グリコシル化、ミリストイル化、メチル化、ユビキチン化などの翻訳後修飾の分析技術も利用可能なものにすることができた。そして、これらの技術を利用して翻訳後修飾異常蛋白質の検出・同定、機能や疾患との関係を究明する研究を行い、診断マーカーの実用化や創薬に近づく重要な成果を得た。また、多重反応モニタリング(MRM)を用いて診断マーカーを検出する技術の開発も行った。

1) 血漿蛋白質のショットガン分析法の開発

血漿蛋白質のショットガン分析では、多量に存在する蛋白質を低減した後、試料をHPLCによって7画分に分画し、画分毎にトリプシンで消化してnanoLC MS/MSで多数の蛋白質を同定する方法を確立した。この方法によって3,000種類近くの蛋白質を同定できるようになった。1回の分析で同定できる血漿蛋白質の数をさらに増やすため、HPLC、OFF GELフラクショネーターなどを用いた分画方法の検討を進めたが、これらの方法で3,000以上の蛋白質が検出できる可能性が出てきた。(協働機関:日立ハイテクノロジーズ、メディカル・プロテオスコープ)

2) 蛋白質のリン酸化部位の大規模解析法の確立

リン酸化蛋白質を効率的かつ高感度に分析するため、分析方法の改良を行った。まず、リン酸化蛋白質の質量分析を行うためには、同蛋白質由来のリン酸化ペプチドの選択的な濃縮が不可欠であるが、今回、リン酸化ペプチドの金属アフィニティー精製に用いるカラムの調製方法の改良によって従来よりも同定数を最大4倍まで増加させることができた。また、ESI-LTQ-Orbitrap MSの導入によって1回の分析でリン酸化蛋白質を1,600〜2,000、リン酸化部位を4,000〜6,000同定できるようになった。これまで使用していたMALDO-TOF/TOF MSやESI-Q/TOF MSでは100程度同定できるに過ぎなかったので、同定数は飛躍的に向上したことになる。(協働機関:メディカル・プロテオスコープ、日立ハイテクノロジーズ)
一方、協働機関である日立ハイテクノロジーズのESI-LIT/TOF MSでも、質量スペクトルの解析ソフトの改良によって1,500程度のリン酸化ペプチドが同定できるようになった。ただし、ESI-LTQ-Orbitrap MSの場合の20倍量の蛋白質が必要であった。ESI-LIT/TOF MSには、電子捕獲解離法によってペプチドを断片化できる独創的な機能があるので、これを併用することによってLTQ-Orbitrap MSでは得られない情報を収集できる可能性があると考えられた。

3) 金属アフィニティー電気泳動を用いたリン酸化蛋白質の解析

金属錯体誘導体を共重合させたポリアクリルアミドゲルを用いて電気泳動を行うと、リン酸化蛋白質は同じ蛋白質であってもリン酸化の程度に応じて移動度が変化する。この変化をとらえることによって、蛋白質のリン酸化の状態を解明できる可能性がある。そこで、本プロジェクトにおけるこの方法の有用性を検証するため、金属アフィニティー電気泳動法を用いてマウスマクロファージ様細胞株であるJ774.1細胞およびHeLa細胞におけるヘテロ核リボヌクレオ蛋白質Kの分析を行った。その結果、金属アフィニティー電気泳動は、質量分析だけでは難しかったリン酸化状態の異なる蛋白質の同定に効果的な方法であることが明確になった(KimuraらProteomics 10:3884-3895,2010)。

4) GPIアンカー結合ペプチドの検出法

蛋白質の脂質修飾は、蛋白質間相互作用や蛋白質—膜間相互作用、さらには細胞内情報伝達等において重要な役割を担っている。その異常は、精神発達遅滞や統合失調症、がんなどの原因となる。GPI-アンカーペプチドGPI-AP)は、脂質ラフトと呼ばれる細胞膜のマイクロドメインに輸送・濃縮されることが知られている。そこで、超遠心機を用いたショ糖密度勾配遠心法により卵巣がん細胞の脂質ラフトを分画した。この脂質ラフト中のGPI-APは、大きな脂質部位をもつため疎水性が高い。そこで、界面活性剤と水による二相分離によってGPI-APを界面活性剤相に移行させた。ついでホスフォリパーゼによりGPIアンカーの脂質部位を切断し、親水性を高めてGPI-APを界面活性剤相から水相に溶出した。この溶出されたGPI-APをMS/MSで解析したが、効率的に配列情報を得ることができなかった。そこで、溶出されたGPI-APをチタニアを用いた金属アフィニティー精製法を用いて濃縮し、さらにフッ化水素酸処理を行い、GPIアンカー部分の一部を切り落とすようにした。その結果、GPI-APをMS/MSによって効率的に同定できるようになった。この方法を用いて、卵巣がん細胞株の32種類のGPI-AP、マウスの脳、腎臓、膵臓、脾臓組織の31種類のGPI-APを同定することができた(MasuishiらJ Proteome Res 12:4617-4626,2013)。(協働機関:島津製作所)

5) 多重反応モニタリング(MRM)質量分析

抗体を使わないでMRM法による質量分析のみで血液中の診断マーカー候補蛋白質の検出を試みた。しかし、多数の蛋白質を含む血液試料から直接診断マーカー候補蛋白質を検出することは難しかった。そこで、免疫沈降法によって診断マーカー候補蛋白質を濃縮精製した後、MRMで検出できるかどうか検討した。まず診断マーカー候補蛋白質に対するマウスモノクローナル抗体を作製した。この抗体を用いて免疫沈降を行い、各蛋白質を濃縮精製した。ついでMRMトランジションを設定し、その中から、特に強いMRMシグナルが得られる3種類のトランジションを用いて、卵巣がん患者血清200 μLをMRM測定を行ったところ、0.5 pg(2.3 pg/mL)レベルの蛋白質があれば定量的に検出できることがわかった。現時点では、免疫沈降法を併用する必要があるが、今後、MRMで血清中の診断マーカーを定量的に解析できる可能性がある。ELISAでは、アイソフォームや翻訳後修飾を識別して検出することができないが、MRMを用いるとこれらを識別して検出することができるので、MRMを用いる意義は大きい。(協働機関:東ソー)

3.今後の研究方針

翻訳後修飾異常と疾患の関係を研究する拠点の基盤となる先端的分析技術を創出、開発、あるいは体系化することができた。本拠点では、これらの技術を利用して翻訳後修飾異常蛋白質の検出・同定、機能や疾患との関係を究明する研究が行われており、すでに診断マーカーの実用化や創薬に近づく重要な成果が得られている。なお、本拠点において出版した実験書「翻訳後修飾のプロテオミクス」(講談社、2011年)には、本拠点で開発された方法を含め、蛋白質の翻訳後修飾を解析する方法の原理が詳しく記されている。現在、拠点内の研究者だけでなく、拠点外の多くの研究者に利用されており、拠点およびわが国のプロテオーム研究の推進に役立っている。
技術開発に終わりはない。拠点の研究を一層強力に支援できる新規な技術の創出、開発が必要である。質量分析装置とその周辺技術の創出および開発に関しては、本学とメディカル・プロテオスコープが共同で研究を進めている。また、拠点の基盤技術を使って翻訳後修飾異常蛋白質の検出・同定、機能や疾患との関係を究明する研究において、新たな技術的課題が生じた場合には、メディカル・プロテオスコープと共同で問題の解決を行う体制が整っている。
一方、本拠点では、本学とメディカル・プロテオスコープとが要素技術を体系化し、大規模で網羅的なプロテオーム解析ができるようにした。メディカル・プロテオスコープは、平成25年度にこの技術を受託分析や受託研究に応用した事業を開始した。

 

「翻訳後修飾ペプチドのレーザー脱離イオン化質量分析による解析(イオン収量の評価と特異的分解法の開発)」 高山 光男

1.研究の背景と目的

リン酸化等の翻訳後修飾蛋白質の解析技術にはソフトイオン化質量分析法が用いられるが、ペプチドに限っても、アミノ酸配列と同時にリン酸化部位を精密に決定することは困難である。さらに、微量蛋白質からの酵素消化ペプチドの解析には少なくともfmol (10-15mol) 量以下での検出が要求される。本研究では、マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析 (MALDI-TOFMS) 法を用い、リン酸化ペプチドのアミノ酸配列とリン酸化部位を同時決定可能なMALDIと組み合わせた水素ラジカル発生技術であるIn-source decay (ISD)法の開発を目的とした。さらに、リン酸化ペプチドの微量検出に関わるイオン収量とペプチド構造との関係を明らかにすること、および平成26年までに翻訳後修飾蛋白質の総合解析(配列解析、修飾官能基の同定、修飾部位の特定)を可能にする質量分析システム(MALDI-ISD/CID)法の構築を目標としてきた。

2.主な研究成果

リン酸化ペプチドのリン酸基を保持したままペプチド主鎖のN-Cα結合のみを特異的に分解できるMALDI用マトリックス試薬を探索し、5-アミノサリチル酸(5-ASA)と5-アミノナフトール(5,1-ANL) を見いだした。5-ASAは、1および2リン酸化ペプチドのリン酸基を保持したままN-Cα結合を分解できただけでなく、完全なアミノ酸配列とリン酸化部位の決定を可能にした(TakayamaらJ Am Soc Mass Spectrom21:979-988,2010)。5-ASAによるMALDIマススペクトルのシグナルピークは高い分解能を有し精密な解析を可能にしたため、特許申請を行った。5,1-ANLは、リン酸化ペプチドのみならず、蛋白質のN-Cα結合を再現性高く分解できる優れた性能を有し(TakayamaらMass Spectrom1:A0001,2012)、4リン酸化ペプチドのアミノ酸配列とリン酸化部位の決定を可能にした(OsakaらMass Spectrom27;103-108,2013)。5,1-ANLの性能はこれまでで最高であったため、関連応用技術として特許を申請した。さらに5,1-ANLは、蛋白質の翻訳後修飾位置や薬物などとの相互作用部位と関連する柔軟性アミノ酸Asp, Asn, Glyでの特異的に高い分解特性を示し、NMRやX-rayで得た柔軟性情報と比較的一致が良いことから、これまでMSでは不可能と言われてきた高次情報獲得にも有用である可能性が生まれた(Takayama Mass Spectrom1:A0007,2012)。5,1-ANLの性能は、当初目的のMALDI-ISD/CID技術への応用も可能にすると考え、島津製作所・田中耕一記念質量分析研究所との共同研究も開始した。
微量ペプチドの解析を進めるために必要なMALDI-TOFMSでの検出限界とペプチド構造との関連を精査し、イオン収量は構成アミノ酸および配列の両方に強く依存することを突き止めた(AsakawaらMass Spectrom1:A0002,2012)。すなわち、N末端にArgを有しC末端に芳香族アミノ酸Pheなどを有するペプチドは、1リン酸化体の500 amol絶対量でも有意なシグナルを得られるが、塩基性残基や芳香族性残基を欠くと500 fmol量までイオン収量が低下することが判明した。このことは、ペプチドマスフィンガープリント法による蛋白質同定では、ペプチドの構造によっては検出できない断片情報があることを示し、その理由はイオン収量の違いに求めることができる。

3.今後の研究方針

MALDI-ISD技術を利用するリン酸化ペプチドおよび蛋白質のトップダウン解析用マトリックス5,1-ANLを見いだしたことにより、今後は、正負イオン解析まで含めたリン酸化蛋白質そのもののトップダウン解析および柔軟性解析を実施する。同時に、島津製作所・田中耕一研究所との共同研究により、MALDI-ISDと衝突誘起解離(CID)法とを組み合わせた精密技術であるMALDI-ISD/CID法によるインタクトのリン酸化蛋白質の解析、およびより実用性の高いMALDI-ISDとMALDI-ISD/CIDに基づいたイメージング技術への発展を目指す。

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