コラム COLUMN

映画「はたらく細胞」に寄せて

この記事は、もともと2024年公開の映画『はたらく細胞』に寄せたコラムを、ホームページ用に一部書き直したものです。

■ 研究対象に過ぎなかった細胞から学ぶ「大切なこと」

 病原微生物と人類の歴史を振り返ると、それはまさに「生存をかけた戦いのドラマ」の連続と言えるでしょう。結核、ペストや天然痘など、多くの命を奪い、小説の題材にも繰り返し取り上げられるほど悪名高い感染症もあれば、近年では、瞬く間に世界を駆け巡った新手の病原体も登場しました。免疫系は、我々に仇なす病原体に立ち向かい、体を守る防御システムです。清水茜さんの『はたらく細胞』は、医学の専門知識がなくてもの免疫の世界の魅力を存分に伝える作品です。体内の細胞を擬人化し、彼らの日常を描くことで、私たちの体がどのように機能しているのかを理解できるよう、巧妙に工夫を凝らしています。
 私は日頃、大学で微生物学や免疫学を講義しています。講義が近づくと、週末を返上でパワーポイントのスライドを準備し、教室では声を枯らして説明しますが、『はたらく細胞』の全6巻を読むほうが、学生が興味を持って学習できることに、無力感と嫉妬を感じてしまいます。

 それでも、確かに、よく練られた作品ですね。
漫画で表現すると、こんなにもわかりやすく伝えられるのかと、私自身、大学院生から借りて読んだ『はたらく細胞』の世界に引き込まれたのをよく覚えています。例えば、主人公に相当する赤血球AE3803は酸素を運ぶ配達員として、好中球1146番は侵入者を排除する勇敢な戦士として描かれています。ある日、赤血球AE3803が体の中で迷子になり、レンサ球菌という細菌に襲われます。そのとき好中球1146番が駆けつけて赤血球を守り、細菌と戦って退治します。白血球が「君を守るためなら、何度でも戦う」と言うセリフは、友情の深さと自己犠牲の精神を象徴しています。このエピソードは、単なる細胞の働きを超えて、人間関係の大切さや友情の力を感じさせてくれました。

 病原体と直接戦わないものの、破れた血管をふさぐ血小板の女の子や、発汗によって気化熱を排出し体温をコントロールする汗腺細胞など、体のメンテナンスを担う裏方の細胞たちにも温かなスポットライトが当てられています。過酷な労働環境(私たちの体内)に耐えながらも職務を全うしようとする細胞たちの愚直さと滑稽さに、私にとっては単なる研究対象に過ぎなかった細胞たちへの魅力を掻き立てられました。

■ 作品の科学的な正確性

 科学的な正確さも秀逸です。好中球が細菌を捕食するシーンや、キラーT細胞がウィルスに乗っ取られた感染細胞を攻撃するシーンは、免疫の専門家から見ても感心するほどの正確さでした。

  1.  まず自然免疫細胞が病原体を攻撃し
  2.  その情報をヘルパーT細胞に伝達します
  3.  ヘルパーT細胞は受け取った情報を統合し、侵入した病原体に対応するB細胞やキラーT細胞などの獲得免疫細胞を活性化します
  4.  B細胞から分化した形質細胞の産生する抗体や、活性化キラーT細胞の連携によって、自然免疫細胞だけでは対処できない病原体の排除に至ります

『はたらく細胞』を読めば、この一連の免疫応答の概念を、視覚的に理解することができます。
 病原体との戦いの場面では、一般の読者が見落としがちな、細胞間のコミュニケーションの描写にも注目すべきです。私たち人間同士は、普段、会話やメールで情報を交換していますよね?免疫細胞にとっての「声」や「テキスト」に相当するのがサイトカインという化学物質です。広義にはアドレナリンやインスリンといったホルモンもサイトカインに含めてよいかもしれませんが、免疫分野に限定すれば、インターフェロンやインターロイキンなど、100種類以上のサイトカインを駆使して病原体の侵入をアナウンスしたり、周りの白血球を活性化したりしています。サイトカインの作用を分かりやすく視覚化するのは、さぞかし苦労なさったと思いますが、著者の清水茜さんは、サイトカインを、白血球たちが若かりし頃の黒歴史の写真に置き換えることで、免疫応答の起爆剤としてのサイトカインの役割をうまく描写しました。

■ 免疫系と病原体との攻防

 もちろん、病原体もやられっぱなしではありません。『はたらく細胞』では、病原体が免疫システムをどれほど巧妙に欺くかを描いたシーンが登場します。例えば、毎年冬に大流行するインフルエンザウィルスは、8本に分節したゲノム(遺伝情報の格納庫)を備えています。インフルエンザウィルスは、8本のゲノムの間で「抗原シフト」という組み替え現象を起こすことで、ダイナミックに遺伝子を変化させます。例えるなら、ルービックキューブをX-Y-Z軸方向に何回か回転させるだけで、全く異なる配色のキューブが作られる過程を想像してみてください。免疫細胞が死力を尽くしてインフルエンザウィルスを撃退しても、翌年には姿を変えたウィルスが登場し、免疫細胞がそれを認識できなくなる困難さがイメージできませんか?これにより、インフルエンザウィルスは免疫システムの監視をかいくぐり体内で増殖を始めます。このエピソードは、インフルエンザが毎年異なる株で流行する理由や、古いワクチンが無力な理由を視覚的に理解する手助けになると思います。

■ 私たちを脅かす内なる敵

 私たちの体を脅かすのは外から侵入する病原体ばかりではありません。
 体内で発生するがん細胞が重大な脅威となることは、日本人の死因の第1位が長年「悪性新生物=がん」であることからも理解できると思います。
 がん細胞は、何らかの原因で遺伝子が変異し、制御不能な増殖を始めることで発生します。遺伝子変異の原因は、どうしてもある一定の確率で起こってしまうDNA複製のミス、紫外線によるDNAの損傷、長期にわたる炎症や、がんウィルスの感染など様々ですが、遺伝子変異を起こした細胞は、通常、アポトーシスによって死を誘導されるか、マクロファージという自然免疫細胞に貪食されることで排除され、増殖しないよう監視されています。作中では、初期の監視網を逃れた がん細胞が他の細胞を侵略し、体内で勢力を拡大していく様子が描かれています。特に、がん細胞が次々と自分のコピーを作り出し、周囲の組織に浸潤していくシーンは、がんの狡猾さと恐ろしさを視覚的に訴えています。キラーT細胞やナチュラルキラー細胞(NK細胞)などの免疫細胞は、がん細胞を見つけ出し、直接攻撃することでその増殖を抑えようとします。しかし、がん細胞は免疫システムから逃れるための手段を巧妙に駆使し、その戦いは一筋縄ではいきません。あたかも正常な自己であるかのように振る舞うがん細胞と、好中球、キラーT細胞やナチュラルキラー細胞(NK細胞)などの免疫細胞との一進一退の攻防を、映画でご覧ください。

■ 生物学的観点からひとこと

 医学・生物学的な観点から少し補足しますと、赤血球の平均寿命は骨髄を出てから約120日間ととても長いのに対し、好中球は、一度体の中に出ると、長くても5.4日間で寿命が尽きると言われています。現実の体内では、同じ赤血球と白血球が場所を変えて何度も再会する機会はありませんし、一度とどめを刺したがん細胞との、時と場所を変えてのリベンジマッチは起こりえません。もちろん、不幸にしてがんが再発した場合は、後から誕生した免疫細胞が、がん細胞と宿命の戦いを繰り広げることになりますが。

 私は、免疫細胞の中でも、特に単球とマクロファージの働きについて研究しています。単球やマクロファージという自然免疫細胞は、病原体を攻撃するだけでなく、病原体との戦いや炎症で破壊された体内の組織の再生にも深くかかわっています。「破壊と再生」という相反する要請にマクロファージがどのように応え、その変調が病気の発症にどのように影響しているのかを調べ、治療に応用したいというのが私の研究のモチベーションになっています。