教室変遷

 病理学教室は1944 年の医学専門学校の開校時には1 教室で、専任教員はおらず、松本武四郎先生(後に東京女子医科大学病理学教室教授)を非常勤講師として迎えて発足しました。1947 年11 月に高松英雄元満州医専助教授と吉村義之青島大学医専教授を専任講師として迎え、1948 年2 月高松先生が初代専教授に昇任するに及び、教室創設の第一歩が始まりました。高松教授は満州時代より酵素組織化学の開拓者として研鑽を積まれ、横浜ではフォスファターゼ、リパーゼ、パーオキシダーゼ、フィターゼなどの酵素の組織学的証明法の確立に勉めました。高松教授は医専閉校後一旦退職され、後に京都大学結核研究所教授となりましたが、日本組織化学会を設立し、会長として国際組織細胞化学会を京都で主催しました。

 1949 年に横浜医科大学が発足しましたが、1950 年4 月に日本医科大学病理学教室より大久保誉一教授が着任し、医専の吉村講師が助教授に就任しました。関東大震災後のほとんど施設のない状態での発足でしたが、徐々に研究環境を整備され、感染症と免疫の病理をテーマにして研究を進めました。新設教室の苦難が多かったですが、教室員の入局も続き、研究もやっと起動に乗りかけたところ、1954 年に教室を去られ、国立横須賀病院の副院長に就任しました。 1955 年、すでに1946 年より横浜に赴任していた吉村義之先生が教授に就任しました。吉村教授は初期の病理学1 教室時代の6 年間、2 講座制になってからの20 年間の計26 年間、教室を主宰され、第一病理学教室の歴史の中で、実質的に基礎を作り、多くの人材を育て、人体病理学的、実験病理学に関わらず幅広く研究を進めました。1961 年、大学院設置に伴い病理学教室は2 講座1 教室制をとることになり、第二講座には阪井教授が就任しました。1965 年、2 講座2 教室制に移行し、ここに名実ともに第一病理学教室(現病態病理学教室)が誕生しました。2 講座に分離後は永岡貞男助教授(後に横浜市民病院)が中心に教授を補佐し、飯田萬一先生(後に神奈川県立がんセンター)、松下和彦先生(後に藤沢市民病院、横浜栄共済病院)、山口正直先生(後に神奈川県立がんセンター)、北村創先生(後に横浜南共済病院、国際医療福祉大学熱海病院)、北村均先生、亀田陽一先生(後に横浜市民病院、神奈川県立がんセンター)らが支えました。この間に横浜市立市民病院、神奈川県立成人病センター(現がんセンター)、藤沢市民病院など関連病院への専任病理医の派遣を行っています。吉村教授の研究テーマは骨折、骨腫瘍の病理学的研究であり、特に骨折治癒過程における物理学的因子の影響について熱心に研究を進めました。しかし、実験的研究ばかりでなく人体材料の詳細な観察、診断に基づいたオーソドックスな病理学的研究も進められ、教室員は電子顕微鏡観察、消化器病理、泌尿生殖器病理、循環器病理、呼吸器病理など幅広い分野で活躍しました。関連病院では中村宣夫先生が千葉大学より横浜市民病院に着任され、亀田先生が県立がんセンターに、松下先生が横浜市民病院に異動されました。
 1981 年、吉村教授は定年退官され、同年9 月後任として東京都老人総合研究所より蟹沢成好先生が教授に着任しました。着任当初は小所帯でしたが、徐々に教室員も増え、若い活気のある教室になりました。蟹沢教授は呼吸器病理学を中心にして、環境科学、発がん、毒性病理、老年病理など幅広い領域で研究を進めきましたが、着任当初は動物実験施設、電子顕微鏡設備が不十分であり、研究環境を苦労して整備しました。1983 年秋に北村創助教授が横浜南共済病院に転出されると、都老人研より井上達先生を助教授に迎え、細胞生物学的手法、免疫組織化学を研究に取り入れました。この間北村均講師、稲山嘉明助手が米国国立環境保健研究所(NIEHS)、伊藤隆明助手がMaryland 大学に留学しました。医学部移転とともに、病院が移転するまでの暫定期間、浦舟町に剖検部(1987-1991 年)が作られ、第二病理学教室と共同で運営しました。福浦での病理解剖は、附属病院移転とともに始まりましたが、HIV 感染の社会問題化等と関連して感染症対応型多相式解剖施設となりました。1991 年、福浦附属病院に病院病理部が開設され、教室から北村均先生が助教授として、稲山助手とともに異動しました。蟹沢教授は肺発がんおよび肺上皮細胞の分化と増殖についての研究に熱心に取り組みましたが、特に発がん機構の中心的な存在としてクララ細胞に注目し、肺がん発生との関係を明らかにしました。他に気道基底細胞の分離、気道内分泌細胞の研究、ヒト気道上皮細胞の分化、増殖、腫瘍発生の研究を行いました。伊藤隆明講師(後に助教授)は肺の発生、形態形成、内分泌細胞についての研究に成果を上げました。蟹沢教授、井上助教授が都老人研の出身であることから、老化の病理学も教室の大きなテーマでしたが、1991 年に基礎老化学会を、1994 年には基礎老化学会シンポジウムを横浜で主催しました。
 1996 年11 月、附属病院病理部助教授で実質病理部運営の責任者としてつとめてきた北村均先生が教授に就任しました。教室員として伊藤隆明助教授、稲山嘉明講師、野澤昭典助手、宇高直子助手らが教室運営を支えました。大学院生としては林宏行先生(現横浜市民病院病理部部長)、奥寺康司先生(現講師)らが在籍していました。北村教授は呼吸器病理学を専門とされ、気道上皮細胞のin vitro での分化、増殖、腫瘍発生についての研究、ヒト肺がん前がん病変、Atypical adenomatous hyperplasia(AAH)の研究に業績を上げられました。世界中で病理診断の基準となるWHO Classification of Tumour(通称Blue book)の肺がん、AAH の章の執筆を担当されています。伊藤助教授はその後熊本大学医学部教授に就任されましたが、筑波大学より矢澤卓也先生(現千葉大学病理学教室准教授)、下山田博明先生(現杏林大学講師)が着任し、細胞生物学的手法、分子生物学的手法を取り入れて神経内分泌細胞癌の発生、転写因子の研究に成果を上げました。奥寺先生は大学院修了の後、国立がんセンター研究所、浜松医大病理学教室で分子生物学技術を取得し、がんのゲノム解析の研究を行った後、2006 年に助手として戻りました。野澤昭典先生はセンター病院病理部に異動し、准教授、部長として活躍されました。関連病院では北村創先生が国際医療福祉大学熱海病院へ異動後、助手の河野尚美先生が後任として異動しました。教室の運営は順調に進み、研究の成果が順調に上がっておりましたが、その後北村教授は体調を崩され、定年前に退官されました。
 そんな状況下で2011 年10 月、大橋健一が虎の門病院病理部より病態病理学教室(第一病理学教室より名前変更)の教授に就任しました。就任当時のスタッフは奥寺助教と三井技術員、鈴木技術員のみで非常に寂しい状況でしたが、研究環境は蟹沢、北村教授時代に整備され、かなり恵まれたものでした。2012 年4 月には都立駒込病院より立石陽子助教、東京医科歯科大学包括病理学教室より梅田茂明助教が着任し、奥寺先生は講師に昇進してようやく教室としての活動がリスタートできる状況となりました。2012 年に松村舞依先生が大学院博士課程に入学、2013 年には日比谷孝志先生が虎の門病院(東京大学病理学教室出身)から病理部助教に着任、循環器呼吸器病センター外科から小島陽子先生が博士課程、齋藤悠一君が修士課程に入学し、教室は徐々に賑やかになってきました。2013 年3 月、センター病院では長年病理部長を務めてきた野澤昭典准教授が退職され、国際医療福祉大学熱海病院教授に就任し、替わって稲山嘉明教授が福浦附属病院病理部より部長として異動されました。