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研究室設立20周年に際して

Since1991
石川 義弘

 本年度に研究室の誕生からようやく20周年を迎えることが出来ました。これまで我々の研究室を支えてくださったたくさんの皆様方の御蔭と感謝申し上げます。

 イシカワラボは今から20年前にニューヨークで産声を上げました。ボストンでのフェローシップを終えると同時にニューヨークに移り、そこで立ち上げたのが始まりです。当初はたった二人だけの研究室でした。独立研究室とは聞こえはいいですが、明日はどうなるか全くわからない不安定な状況で、断片だけ見つけていた心筋酵素(アデニル酸シクラーゼ)を同定しようと、毎日毎晩悪戦苦闘で、遺伝子解析のゲル装置を何度も動かして、配列も自前で読んでいる状況でした。No Sunday, no holidayで、若いだけが取り柄の体力勝負だったのを覚えています。今では自動シークエンサーに入れればあっという間に遺伝子配列が解ってしまうことを考えると、隔世の感があります。お金集めから人の確保、学会や論文などなど、すべてを切り盛りせねばなりませんでした。泳ぎを習ったことのない子供が海に突然放り込まれたようなもので、それでもたくさんの方々に助けていただき、何とか溺れることなく生き延びることが出来た感じがいたします。

1995年には再びボストンに研究室を移し、この頃になってようやく研究室の運営が軌道に乗り始めました。当時のブリガム病院の私のオフィスは、男子便所を改装した2畳程度の空間で、小さい机を入れるとそれだけでいっぱいでした。当初は上階から汚物が漏れてくるので閉口したのを覚えています。日本だけでなく色々な国々のスタッフに来ていただき仕事も順調に進み、スタッフが帰国する際にはたくさんのお土産(論文)を持ち帰って頂けたのが一番うれしくありました。1997年にはペンシルバニアに研究室を移しましたが、ここでアメリカ史上最大の大学倒産を経験しました。90年代に急成長し、文字通り米国最大の医学部となった医科大学が、医療制度改革のあおりを受けて見事に倒産したのです。負債総額数千億円という巨大な倒産劇でした。NIHのグラントは豊富にあっても、予算が全く執行できないという悲哀を味わいました。おかげで倒産を経験した我が国ただ一人の教授となる(?)ことが出来ました。

1998年に御縁があって横浜市立大学に再度研究室を移したのが、現在の循環制御医学教室の前身です。かつて佐川喜一先生という、世界の循環器研究に大きな足跡を残された先達のいらした教室です。佐川先生がジョンズホプキンス大学医学部教授時代には、私はまだ医学生でしたが、強い薫陶を受けたのを覚えています。当時は数名からスタートした教室も、今ではOBも増え、また各界で活躍する教室卒業生も増えてまいりました。多数の優秀な教員、実験補助員、秘書の方々が教室運営を支えてくださり、何とか今日を迎えることが出来ました。

20年を振り返ってみると、長いようでもあり、あっという間でもありました。自分のこれまでを振り返ってみると、しなくても良い苦労をかなりしてきた気も致します。後進の方々には、ぜひこのような無駄な苦労をしなくて済む様に、しっかりとした環境と道しるべを作ることが私の義務と思っています。偉大な研究者であった佐川先生の足元に追いつくことは永久にないでしょうが、せめて足元を目指すことだけは続けながら、次の30周年を迎えることが目標です。どうか引き続き皆様のご支援をお願い申し上げます。