病院の歴史

1871
明治4年(1871) 4月20日
早矢仕有的の首唱による有志の寄金をもとに、元弁天通(現中区北仲通6丁目)に「仮病院」を開設。9月に近隣の失火により類焼閉院。

横浜仮病院と早矢仕有的
早矢仕有的氏の呼びかけによる寄附をもとに、元弁天通(現中区北仲通6丁目)に「横浜仮病院」を開設。当時、長崎に次ぐ2番目の西洋式病院だった。ちなみに早矢仕氏は医師でありながら書店「丸善」の創立者でもあり、「ハヤシライス」の生みの親とも言われる実業家。

1872
明治5年(1872)7月
仮病院焼失のため、大田町6丁目に代替施設「横浜病院」を開設。

明治5年(1872)10月
野毛老松町に場所を移し「横浜共立病院」と改称。
1874
明治7年(1874)2月
横浜共立病院を県立とし「十全医院」と改称。

明治7年(1874)8月
天然痘流行により予防接種業務の全てを十全医院に移管し、県下の予防接種本局として証明書を発行。

明治7年(1874)秋
十全医院で初めて医学研究のための人体解剖を行う。

十全医院の誕生
横浜仮病院はその後横浜共立病院と名称を変え野毛山に移転、さらに県立に移管されたと同時に「十全医院」に改称された。野毛山では貧しい市民への治療「貧民施療」が行われていた。また、十全医院では天然痘の予防接種や、コレラの大流行の際には治療や防疫の中心的役割を担った。

1877
明治10年(1877) 秋
コレラ流行の対策として、横浜市内の医師を十全医院に集め、シモンズが数回にわたる講義を実施。
1891
明治24年(1891)4月1日
神奈川県十全医院を横浜市に移管し「横浜市十全医院」と改称。建物の増改築を行う。
1898
明治31年(1898)5月12日
看護婦養成所を開設。ナイチンゲール生誕喜寿に因む。

横浜市立十全看護婦養成所を開設
ナイチンゲールの誕生日にちなんで、5月12日に「横浜市立十全看護婦養成所」が開設された。第一回の入所者は6名だった。当時の看護教育は医師にゆだねられており、病院における看護婦の業務は主に診療の補助であった。

1905
明治38年(1905)6月
医院処務規定を改め、医務・薬剤・事務の3局に体系化。
1923
大正12年(1923)9月1日
関東大震災のため全焼。隣接の平沼久三郎氏の好意により邸宅を借りて仮診療を実施し、被災者の救護を行う。

大正12年(1923)11月
香港より寄贈されたバラック病棟の資材で34床の病舎開設。

関東大震災発生
横浜地域は震度7ともいわれる震災の発生により、十全医院は全焼した。当日の入院患者は129名、勤務していた職員等は150数名とも言われ、余震の続く中、職員の決死の避難誘導により、1名の死傷者も出さずに院外に避難したという。その後は平沼氏邸を仮病舎として診療を再開、また市内全域へ医療救護班を派遣する等被災者の救護を行った。

1924
大正13年(1924)6月23日
南吉田町(現南区浦舟町)旧万治病院跡地に応急病院として移転し業務開始。
1927
昭和2年(1927)4月
病棟建設開始(~昭和14年)。
1928
昭和3年(1928)
「横浜市立横浜商業専門学校(Y専)」設立 ※横浜市立大学起源。
1944
昭和19年(1944)4月
「横浜市立医学専門学校」設立。それに伴い「横浜市立医学専門学校附属十全病院」と改称。

横浜市立医学専門学校附属十全病院に
1944年に十全医院を母体とする「横浜市立医学専門学校」が設立され、本学医学部のルーツとなる。太平洋戦争中に軍医速成のため、医科大学より修学期間の短い医学専門学校が多く設置されたが、横浜医専もそのひとつ。十全医院はその医専の附属病院となった。

1948
昭和23年(1948)11月
隣接の「横浜同愛記念病院」を買収合併し附属病院とした。
1949
昭和24年(1949)4月
横浜市立医学専門学校が横浜医科大学となったため「横浜医科大学病院」と改称。

横浜市立医学専門学校が横浜医科大学となり、横浜医科大学病院に
戦後の医学教育改革が進められる中、厳しい審査を経て横浜医専は大学に昇格。1947年(昭和22年)に「横浜医科大学予科」として現在の金沢区六浦に開校。1949年(昭和24年)には「横浜医科大学」として認可された。

1952
昭和27年(1952)4月
横浜市立大学医学部の設置に伴い「横浜市立大学病院」と改称。

横浜市立大学医学部が設置、「横浜市立大学病院」に
旧商学部の起源である「横浜市立横浜商業専門学校(Y専)」が大学に昇格するとともに、横浜医科大学と統合、「横浜市立大学」となる。ここに横浜市立大学医学部が誕生し、病院も「横浜市立大学病院」に。

「横浜市看護婦養成所」として、看護学科、准看護婦学科が発足
1952年(昭和27年)4月、「横浜市看護婦養成所」が発足、翌年には、「横浜市立高等看護学院」に改称。当時の定員は、看護婦科15名、准看護婦科30人だった。1966年(昭和41年)には、「横浜市立高等看護学校」に、1971年(昭和46年)には「横浜市立大学医学部付属高等看護学校」となった。

1954
昭和29年(1954)4月
「横浜市立大学医学部病院」と改称。
1961
昭和36年(1961)4月
大学院医学研究科(博士課程)設置。
1966
昭和41年(1966)4月
「横浜市立高等看護学校」「横浜市立准看護学校」設立。
1972
昭和47年(1972)11月1日
横浜市立大学病院100周年記念 学術講演会開催。
1981
昭和56年(1981)12月
医学部移転先を金沢区の金沢埋立3号地に決定。
1987
昭和62年(1987)4月
金沢区に医学部校舎開校。

金沢区に医学部新校舎設置、4年後には医学部附属病院開院
大学院設置のための研究設備の充実や校舎の増設が行われていたが、狭隘化や老朽化のため、金沢区の埋め立て地への移転を決定。1987年(昭和62年)に医学部新校舎が金沢区福浦に移転した。また、4年後には600床の附属病院も完成。

1990
平成2年(1990)1月
救命救急センター稼働開始(浦舟)。
1991
平成3年(1991)7月
「横浜市立大学医学部附属病院」開院。浦舟の附属病院を「横浜市立大学医学部附属浦舟病院」に改称。
1995
平成7年(1995)4月
「横浜市立大学看護短期大学部」設置。
1998
平成10年(1998)1月
大学院医学研究科(医学科専攻・修士課程)設置。
2000
平成12年(2000)1月
「横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター」開院。

横浜市立大学附属市民総合医療センター開院
医学部の福浦移転に伴い名称を「横浜市立大学医学部附属浦舟病院」として運営していた同病院は2000年(平成12年)に解体、新たに700床規模の「横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター」として、高度救命救急センターを要する病院に生まれ変わる。

2005
平成17年(2005)4月
「公立大学法人横浜市立大学」発足。「横浜市立大学附属病院」に改称。「横浜市立大学附属市民総合医療センター」に改称。
2010
平成22年(2010)4月
大学院医学研究科看護学専攻(修士課程)設置。

2011年(平成23年)東日本大震災発生
附属病院および附属市民総合医療センターはともに「災害拠点病院」として、横浜市内の災害時医療の中心を担うとともに、発災直後から被災地に医療救護班を派遣、現地での医療救護活動を積極的に行った。

2018
平成30年(2018)4月
大学院医学研究科看護学専攻(博士課程)設置。
2020
令和2年(2020)2月
新型コロナウイルス感染症の流行に対して、初期から横浜市内の中核的医療機関として重症患者の治療を実施。

新型コロナウイルス流行
2020年2月、横浜港に接岸したクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス号」で多くの新型コロナウイルス陽性患者が確認され、その多くの患者を横浜市立大学附属2病院で受け入れた。以降、神奈川県における中心的な治療施設として、重症・中等症患者の受入れを積極的に行った。

2021
令和3年(2021)4月
横浜市立大学病院150周年。
2022
令和4年(2022)10月
横浜市立大学病院150周年記念式典開催(予定)。