学術誌「横浜医学」




「横浜医学」の生い立ちと発展



 横浜医学会の会誌、「横浜医学」 (Journa1 of Yokohama Medical Association) の第1巻1 号は、1948年(昭23年) 6月1日に創刊された。 当時は敗戦直後の混乱期であり、人々は毎日の生活を営むのが精一杯であったために、まともな研究なぞとてもできる時代ではなかった。このような時代に故高木逸麿校長の提唱により、1947年(昭和22年)5月に本学内で第1回横浜医学集談会が開催され、1948年(昭和23年) 6月には神奈川県、横浜市両医師会との懇談により横浜医学会が設立され、さらにその業績の発表機関にたる雑誌「横浜医学」の創刊号が発行されるにいたった。まことに情熱ある壮挙といえよう。当時の高木校長は、本誌前史(医専・医大)において記述したように、この1号に「創刊の辞」として一文を寄せ、その並々ならぬ決意を披瀝している。

 当初の編集には、鈴木直吉教授(編集長)、原田彰、中村兼次、小川義雄教授があたった。装丁には、当時学生だった田中直彦(故眼科学教授)による「よみがえるミイラ」の絵が飾られた。鈴木教授が広島県立医大に転出後、1950年(昭和25年) 1月15日発行の第1巻4号からは、水町四郎教授が編集長を引き継いだ。さらに、1951年(昭和26年) 1月10日発行の第2巻1・2 号からは発行所が神奈県医師会に移された。この間の経過を高木校長が第2巻1・2号に述べている。「横浜医学会が誕生してから既に三ケ年を経過した。この学会は神奈川県医師会と横浜医専とが合同してその運営にあたって来た。しかし、日本医学会にも大なる変革がもたらされ、日本医師会の内に包囲された。これは今後の学会の進路を示すものである。横浜医学会は創設以来この形式のものであるが、その機構に於いて横浜医大或は横浜医専の学会と誤解されないこともなかった。創立時からの本学会の主旨は何等変らず、神奈川県下の医師の学会である。この意味からして今回完全に神奈川県医師会の内の横浜医学会として神奈川県医師会学術部に於いて総会の開催並に会誌の発行等が行われるように機構が改められた。斯くしてこそ神奈県下全医師に愛され且利用される学会となることを信ずる。会員諸氏は勿論、神奈川県医師会全員の御理解と御援助によって本学会の更に大なる発展が期待出来るように希んでやまないものである。」

 さて横浜医学発行も横浜医学集談会開催も当初から本学と神奈川県医師会との共同事業という形式で行ってきたが、1967年(昭和42年) に入ると諸般の事情から県医師会と袂を分かち、文字通り一人立ちをせざるをえない事態になった。かくして横浜市立大学医学会が設立され、第18巻1 号、1967年 (昭和42年) 6 月からこの新しい母体によって横浜医学が発行されるようになった。本学会は本学部に在籍する教員を主会員とし、その負担する会費をもって運営するのであるが何分にも会員数が極めて少なく、会員としての特典である無料頁を設けると、雑誌を発行すればするほど赤字になるという点が、研究発表の掲載が少ないということにもまして、悩みの種になってしまった。しかも本学会の評議員は教授をもってあてていたので運営その他の審議はすべて幹事に任せっぱなしとなり、横浜医学の編集委員となった幹事の苦労は並み大抵のものではなかった。これが助教授、講師を加えた新しい組織になってからは、原稿の募集と定期刊行に絶大な努力が払われ、第22巻(1971年〈昭和46年〉)からは、従来の年間4 冊から3 年間6 冊の発行に発展した。 

   しかし、何といっても安定した雑誌の発行を行うには財政の確立が必要である。このために横浜市立大学医学会を本学卒業生(倶進会会員) と母校との交流の場とし、さらに生涯研修の場として活用してもらうべく、本学卒業生全員が横浜市立大学医学会にぜひ加入して欲しいという呼びかけが、倶進会に行われた。かくして両者の役員会でこれらについて精力的に検討した結果、本学卒業生全員は自動的に横浜市立大学医学会会員になることを合意し、それぞれ必要な手続きがとられて、長年の懸案は解決した。さらに第27巻、1976年(昭和51年) より雑誌の表装も斬新なブルー色となり、今日に至っている。


横浜市立大学60年史(1991年7月発行)より抜粋