教室の沿革

伝統の中で培われた診療技術および研究力を、
次世代を担う泌尿器科医に継承します。

教室の歴史

1944年(昭和19年)2月、横浜市立医学専門学校開校、泌尿器科の前身となった皮膚科性病科の教授として宮村利一先生が就任している。昭和21年の10月、医学専門学校の付属病院であった横浜市立十全病院の皮膚科性病科副医長として原田 彰先生が就任した。翌1947年(昭和22年)6月、原田先生が泌尿器科学の教授に就任した。この時点をもって、横浜市立大学医学部泌尿器科教室の創立と考える。

原田 彰教授時代(1947年6月~1967年9月)

原田 彰教授は教室の創立者らしく、大変活達な人であった。頭脳明晰である上、芸術家のような繊細さを持っておられた。語学が得意で、英語は勿論、独語、仏語の読解が自由であったため、外国の文献に精通していた。「勉強しろ」が先生の口癖であったが、酒宴もお好きだったから、教室員はよく飲み、且つ勉強した。病室の一部を改造、医局員が宿泊して勉強するのに便ならしめた。原田教室の業績はこのような雰囲気の中で次々と生まれてくるのであるが、我が泌尿器科教室が学会でリーダーシップを取るに至ったことは周知の通りである。研究の柱となったテーマは、尿路結石、放射線同位元素の治療への応用、特発性腎出血、男性内分泌学、腎性高血圧などの研究である。尿路結石の研究は病因から治療に至るまでの一貫したもので、第1報から第20報に至る論文が日本泌尿器科学会誌に発表された。放射性同位元素の尿路性器系腫瘍治療への応用は昭和30年代の泌尿器科領域では草分け的な仕事であったが、学会で高い評価を得た。その業績は昭和35年4月大阪市で開催された日本泌尿器科学会総会において宿題報告として発表された。特発性腎出血の研究は、当時原因不明の腎出血と言われていた疾患の一部の解明に役立ち内外の学会で注目された。男性内分泌学は泌尿器科領域において最も重要な課題であるが、その研究は横浜市大のお家芸の1つとして今日まで及んでおり、その業績が今日高い評価を得ていることは言うまでもない。腎性高血圧に関しては、教室創立の頃既に論文がでているが、後に至って腎生理の立場から病因について検討が加えられ、教室の業績に加えられた。

高井修道教授時代(1968年4月~1982年3月)

高井修道教授は、原田教授の後任として札幌医科大学教授から横浜に転任された。高井教授は既に札幌時代に性の分化という面からみた先天異常、あるいはこれに関連する男子内分泌学で多数の業績を挙げられていた。横浜に来られてからは、これに加えて、尿路性器癌の研究に取り組み、札幌時代の研究をここに結晶させたものといえる。高井教授は癌の研究に関して一つの指標を示していた。即ち癌は細胞組織が一旦分化発育したものが逆もどり(de-differentiation)したものであり、先天異常の研究によりえた細胞の分化機構を究めることによって悪性化の方向転換も可能となるかもしれないと考えられていた。この考え方を証明するのに横浜は格好な教室であったといえよう。札幌から横浜に移る頃、先生は研究の手法を形態学的なレベルから、機能的または分子生物学的レベルに転換されたが、横浜の教室員たちは良くこれを受け、多大の業績を挙げた。高井教授はご就任以来、数多くの学会、研究会に関係してこられたが、特記すべきは、昭和45年日本先天異常学会会長、昭和53年には日本泌尿器科学会総会会長をつとめられたことであろう。昭和57年からは横浜市立大学学長となられたため、横浜市立大学泌尿器科学教室はさらに一段と発展し、本邦の泌尿器科学における揺るぎない地位をかためた。

大島博幸教授時代(1982年9月~1985年1月)

1982年(昭和57年)9月、東京医科歯科大学講師、大島博幸先生が第3代教授に就任されたが、2年4ヶ月後の1985年(昭和60年)1月、母校の東京医科歯科大学教授に転任された。

穂坂正彦教授時代(1985年8月~2001年3月)

1985年(昭和60年)8月1日、穂坂正彦先生が第4代教授に就任した。当教室としては初の本学出身である。穂坂教授の人柄が醸し出す自由かつ闊達な雰囲気は学生・研修医に人気が高く、退官までの16年間に79名の入局者を迎え入れることとなった。関連基幹病院も30病院と増え、泌尿器科医師の会会員は103人に達した。また、常に若い医師を勇気づけ、積極的に国内外への留学を推奨し、13人の海外留学者と5人の国内留学者を送り出した。研究室は関連基幹病院から訪れる若手医師を含めて連日深夜まで賑わい、日曜・祭日も実験する人々の姿がみうけられた。それらの成果は、基礎および臨床研究で多くのすぐれた業績として結実している。科学研究費獲得も毎年途切れることなく継続されている。平成12年に横浜市立大学医学部は、福浦(附属病院)と浦舟(センター病院)の2つの附属病院を有することになった。また平成9年より腎移植が開始され、平成12年以降はセンター病院に臓器移植科が新設された。さらに人材育成と活性化のために講師以上のスタッフの大幅な増員を成し遂げた。穂坂教授はこうした泌尿器科の教室業務に留まらず、大学医学部・医学研究科長として医学部改革にも情熱的に取り組まれた。中でも構造生物学の導入、大学院医科学専攻修士課程の設置、病院勤務教授の配置、教員の任期制の導入、二つの附属病院の機能の位置づけと一体管理体制の確立、等の実績を残された。

窪田吉信教授時代(2001年6月~2014年3月)

2001年(平成13年)6月1日、窪田吉信先生が穂坂教授に引き続いて本学出身の第5代教授に就任した。窪田教授は臨床医学を科学として捕らえる姿勢を終始貫き、基礎的研究手法を臨床研究に積極的に導入された。また海外の多くの研究者との交流を深め、若手人材の育成にも大いに尽力され、この間の入局者は80名余を数えた。Life workの一つである腫瘍学では、泌尿器がんの診療体制を確立するとともに「コアチャレンジ」の考えのもと、臨床での疑問や課題を解決すべく細胞生物学・分子生物学を取り入れた研究を、若手教室員を叱咤激励しながら精力的にすすめた。腎・膀胱・前立腺がんの遺伝子、分子背景の解析研究は世界レベルであり、その成果は新規分子標的治療や個別化診断につながった。男性不妊症研究においても体外で精子形成を進行させるという技術を世界に先駆けて成し遂げ、中心となりこれを進めた小川医師は、新設された市大生命医科学研究科教授に栄転し、益々研究に邁進している。また異分野との研究交流にも大変熱心で、光触媒の医学応用や情報工学を駆使したミッションリハーサル型手術シミュレータの世界初の開発など、産学連携、医工連携研究を遂行された。学会活動においては、日本泌尿器科学会の理事を務め、教育委員長、学術委員長として本邦における泌尿器科教育と学術の質の向上に熱心に取り組まれ、2011年第77回日本泌尿器科学会東部総会、2013年第26回日本老年泌尿器科学会を主催した。学内では附属病院先進医療推進センター長、学長補佐、医学群長、副学長を歴任し、さらに2014年4月からは横浜市立大学学長として、大学全体の運営と改革に尽力されている。

矢尾正祐教授時代(2014年8月~2021年3月)

2014年(平成26年)8月1日、矢尾正祐先生が窪田吉信教授に引き続いて本学出身の第6代教授に就任した。世界的な腎癌研究者である矢尾教授のもと、希少性遺伝性腎癌の本邦における診療拠点としての体制作りが進められた。また、泌尿器科診療は本格的な低侵襲治療時代へ突入し、国内トップクラスのロボット手術件数を誇る診療体制もこの間に構築された。

槙山和秀教授時代(2021年8月~現在)

槙山が矢尾教授の後を引きついで、第7代教授となった。教室はいささかも停滞することなく、泌尿器科学のさらなる発展を目指し、大学および関連施設が一丸となって教育、研究、診療に突き進んでいる。