![]() この資料はいつ頃の時代のものなのでしょうか?残念ながら、直接の日付は記載されていません。また、現在の薬剤部にも記録は残っていませんでした。当院の歴史をひも解くと、病院名の変遷だけでも次の表のようになります。 |
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「お藥の御注意」に記載されている病院名は「横濱市十全醫院」となっていますから、明治24年04月以降で昭和19年03月までの間ということがわかっています。 | |
もうひとつヒントになる記載があるとすれば電話番号でしょう。「3-0018」と書いてあるように見えます。当時は、市外・市内局番という概念があったのでしょうか?財団法人横浜観光コンベンション・ビューローのサイトによれば、「日本で初めて電話交換が始まったのは、東京・横浜間で1890(明治23)年12月16日とのこと。開始時の開通者は、東京155名、横浜42名で、横浜の交換手は男性4名だった。」そうです。電話番号から時代を特定するのは難しそうです。しかし、日本初の電話が開通した翌春には「十全醫院」は県から横浜市に移管され、今日まで公的な病院としてその役割を担ってきたことがわかります。 | |
資料の中身に話を戻しますと、その内容のほとんどは現代でも通用するもので、先達たちの提供していたサービスの質の高さを垣間見ることができます。当時は、散剤・水剤が中心で、薬の取り扱いは現代のように簡便ではありませんでした。調剤の機械化が進むのもずっと後のことです。現在とはまったく異なる環境の中で、医薬品の適正使用のため努力されていた様子が伺えます。今回、この資料に触れたことで、先輩たちの仕事ぶりに想いを巡らせる機会を得ました。明治以来当院が果たしてきた役割や伝統、先輩たちの努力の様子を誇りに、これからも当院の理念実現のため、一層努力していこうと考えております。 |