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8. 絵とバイオリン

 私の記憶ないし想像では5歳のとき、通っていた幼稚園にバイオリン教室があり、母が「やってみる?」と私に尋ね、私がそれにうなずいたことになっている。 うなずくということが本当に意思をあらわしていたかどうかは疑間である。なぜなら当時私はいわゆる躾のきびしい母におびえていたからであり、へたにさからうとどうなることかと怖れていたからだ。教育ママである。バイオリンのほかにも私に色々なお稽古ごとをさせた。習い始めたものの、私はその頃まったくといってよいほどこの楽器に触れることに興味はなかった。練習をしなさい、といってせまる母から逃げ回っていたことを思い出す。実際、楽器をかまえて弾いているその頃の自分の写真をみても、義理にも上手そうとは言えない。小学校2年になって家が父の転勤で東京から大阪、高槻市に移り、そこで新しいバイオリン教室に通うことになった。バイオリンの発表会のあった日の翌日、集団登校の集合場所であった京大付属の農園の前で、同じ小学校に通っていた1 年上の先輩(彼も同じ教室でバイオリンをならっていた)T君は私に向かって「おまえきのうの発表会きいたけど下手くそやな。やめてまえ」といった。私はその聞きなれない言葉の響き、そして言われた言葉の意味が良く理解できなかった。しかしさすがに「なぜそんなにいわれなくてはならないのか」と感じたことを思い出す。その後、彼はどういうわけかあっさりバイオリンをやめてしまったらしい。私は依然として続けていた、というより敢えてやめるということをしなかった。ある時、他の生徒がどんどん曲目を替えて練習を進めているのに、私は同じ曲を一年間も練習させられたことがあった。先生は「君は神経がつながっていなんじゃないの?」と言った。後できいたことだが、母は他の生徒さんに比べて我が子に対する扱いと、その挙句に浴びせられた言葉に狼狽し、傷つき、憤慨し「(こんなことなら)やめる?」と私に聞いたという。しかし私はその時、頷くことなく、頭を「横に振った」。私が今「神経はどうしてつながっていくのか」を研究しているわけは、この時の先生の言葉のせいかもしれない。

 そんな私にも転機が訪れた。
 たぶんあれは小学5 年のときだったと思う。突如として音楽に恋焦がれ、楽器を弾くことが楽しくなってきたのである。それにはうまく弾こうとしても思うようにならないもどかしさ、苦しさをともなってはいたが・・・・。どうしてそうなったのか理由はよくわからない。振り返れば何か予兆というようなものがあったかもしれない。いつの頃からか誰にいわれるということもなく家にたまたまあったレコードをかけていた。そのころ繰り返し聞いていた曲はドビッシーの月の光とベートーベンの第九交響曲の終楽章、そしてバッハのバイオリン協奏曲であった。その頃開かれたバイオリンの発表会で、私にとって衝撃的であった一つの出来事があった。先輩Nさんの弾くモーツアルトのバイオリン協奏曲に何とも言いようもなく強く魅せられたのだ。あのような強い憧れを伴った感情はその後あまり経験した覚えがない。

 共通する点も多いが、絵についての私の体験は音楽とは少し違っているところがある。絵は音楽と違ってとことん一人で描くものである。私はそのことを知らなかった。中学に入って真っ先に入部したのはテニス部だった。いかつくこわそうな先輩に徹底的にしごかれ、通学に時間のかかる遠方からの通学であったこともあり、入部3ヶ月で失意のうちに退部することになった。たまひろいで終わったわけである。その後当て所なくふらふらしていた私を捕まえたのは美術部部員であった同級生のH君だった。彼に「どうだ、入らないか」と誘われて入部してみたものの、美術部の部室で絵を描いていたのは来る日も来る日も私一人だった。とどのつまり私が入部する前の美術部はすべて「幽霊部員」から成り立っていたわけである。当然のなりゆきで、広々とした部室を独占し、誰にも遠慮なく、デッサン、油絵、石膏、色々なことに好き勝手に取り組むことができた。これらはすべて全く自己流であった。唯一たよりにしたのは展覧会の絵や彫刻であった。一年後の文化祭での美術部の展示会はまさに私の個展であつた。同級生や先生たちは皆、「美術部員はお前一人か?」といぶかしげに尋ねた。私はこのとき絵は一人で描くものということを納得したのであった。

1993 年3月、私は不安の中、ハーバード大学での留学のため単身でアメリカ、ボストンに赴いた。留学中、私は大学卒業後しばらくご無沙汰していた楽器と絵筆を握って、単身の気軽さを楽しみ、また一方で寂しさ、手持ち無沙汰を紛らわせた。  当地へ赴いて、ようやく生活が落ち着いてきた4月、5月の空気は澄んでいた。窓からのパノラマがたいそう気に入って住むことになったアパートの一室で、斜めからさしこむ早朝の光に鋭い光と影の強烈なコントラストに身を包むベス・ィスラエル病院(ハーバード大学医学部付属病院の一つ)に毎日のように眺め入った。景色そのものはゴージャス以外の何ものでもなかったが、このときの私の心はまさにホームシックー色であった。私はその時まで外国はおろか一人暮らしをしたことがなく、自分がこのようになるとは全く意外であった。実験もさっぱり軌道にのらず、またボスのStephen MStrittmatterはハーバードからの異動を灰めかしていたので全く落ち着かなかった。この間は、ただひたすら数ヶ月後の夏休みに家族を呼び寄せる日を指折り致えて待っていた。そんなある日、当時小学1年の次女からファックスが来た。「こんどの夏やすみはわたしもアメリカにいってえいごペラペラになりたいです」と、一目で彼女の字とわかる大きな太い字で書かれてあった。そんな些細なことに目頭を熱くしていたのである。

  ボストンで知り合った友人は研究者ばかりではなかった。住んでいたアパートのロビーには2台のピアノが置いてあった。ある日、二人の婦人がモーツァルトのバイオリンソナタを奏でていた。私は思わず彼女らに近づき私も仲間にいれてほしいと話しかけた。あとになって知ったことだがピアノ伴奏をしていたご婦人はハーバード大学神学校のA教授、バイオリン演奏をしていたのはオラングから留学のためアメリカに来た小児整形外科医Vであった。その後、数回、A教授の自宅に招かれ、モーツァルトやバッハなどの曲を一緒に演奏する機会に恵まれた。A教授のご主人はボストン美術館の館員で、自宅には数多くの美術品が飾られていた。このようなことがきっかけになり、帰国後10年以上もたった今でも親交がある。これは留学中で最も思いがけない出来事の一つであった。  10月、Steveがエール大学に移ることになった。この時私は半年しか住まなかったボストンの景色や街のにおいといったようなものに深い愛着を覚え、そこから離れがたい気持ちが募った。エール大学のあるニューヘブンに向いつつあった私はボストンと家族とに対する二重の感情で覆い尽くされていた。エールの景色はハーバードとは全くことなっていたが、私に別の思いと描きたいという衝動を掻き立てた。  最近は絵筆をとることも楽器に触れることもなかなかできないでいるが、それでもなお相変わらず私にとって絵とバイオリンは付き合うたびに憧れと楽しさ、そしてもどかしさとが入り混ざる、捨てがたい友人たちであることに変わりはない。



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