急性肺障害/慢性呼吸器疾患に対する治療戦略の究明 (倉橋清泰)

  私たちの研究グループでは、肺障害/肺損傷の発生機序の解明とその治療法の開発にむけた研究を、基礎研究・臨床研究の両面から行っています。

【A. 基礎研究】
1)ALI/ARDSの治療
 急性肺損傷(ALI)や急性呼吸窮迫症候群(ARDS)の患者さんに対する肺保護的換気の有用性が明らかにされてきていますが、その死亡率は依然30%以上と高い。これは、これら症候群に対する有効な薬物治療法が確立されていないことによるところが大きいと考えられます。そこで私たちの研究グループではこれら疾患の治療に向けた研究を行っています。

 ALI/ARDSでは肺の上皮細胞のapoptosisやnecrosisによりガス交換能が障害され、酸素化が低下します。これらの病態の動物実験モデルにおいて、肺胞上皮細胞の増殖因子を投与することにより肺の障害が軽減するという報告がなされています。しかしながら、臨床応用を考えた場合、治療薬を蛋白(ペプチド)の形で投与することには、効果持続時間や、コストの面からその限界があります。そこで私たちはALI/ARDSの実験動物にこのような蛋白を発現するウイルスベクターを用いた遺伝子治療を行うことを計画しました。
 最近の結果では、この遺伝子導入によりALI/ARDSのモデル動物において肺傷害の軽減と生存率の増加が確認されました(Baba Y, et al. Keratinocyte growth factor gene transduction ameliorates acute lung injury and mortality in mice. Hum Gene Ther 18: 130-41, 2007)。今後、臨床応用も視野に入れて、さらにデータを積み上げています。


2)慢性呼吸器疾患に対する治療
 肺気腫や肺線維症は有効な治療法がなく予後が悪いばかりか、生存期間においてもQOLの低下をもたらす疾患です。私たちはこれら慢性呼吸器疾患の治療法の開発にむけて、実験動物において疾患類似モデルを作成し、前述の1)と同様の遺伝子導入実験を行っています。実験条件によっては効果がみられていることから、今後はより疾患類似のモデルを作成する一方、機序の解明にむけた研究を継続していきます。


3)全身性の炎症に合併する肺傷害の発生機序の解明と治療法の開発
 全身麻酔の際には多くの場合間欠的陽圧換気が行われます。現在一般的に用いられている換気様式においては人工呼吸そのものにより肺障害が起ることはないと考えられていますが、手術で非常に大きな侵襲が加わり、全身性炎症反応症候群 (systemic inflammatory response syndrome, SIRS) の状態に人工呼吸という2次侵襲が加わった場合には、肺その他の臓器に傷害を起こす可能性が否定しきれません。そこで私たちは、実験動物に手術中の患者と類似したモデルをつくり、一定時間人工呼吸を行った後にその動物の臓器や血液を採取して、炎症や臓器障害の程度を調べています。
 最近の研究で、臓器の阻血再還流のような大きな侵襲が加わった際に高容量換気を行うと肺傷害が発生することが確かめられました(Ota S, et al. High tidal volume ventilation induces lung injury after hepatic ischemia-reperfusion. Am J Physiol Lung Cell Mol Physiol 292: L625-31, 2007)。この結果を踏まえて、このような肺障害の発症機序をさらに究明し、それを軽減するための薬物治療の可能性を探る研究を続けています。


【B. 臨床研究】
1)高度侵襲手術の後に起こる肺傷害を軽減する方略の検討
 A-3) に関連して、倫理委員会の承認を得たプロトコールを待機手術が予定されている患者さんに説明し、了解の頂けた患者さんにおいて、患者さんに加えられる手術侵襲の大きさと、体内の炎症性メディエーターの推移との関係を調べています。特に気道内の炎症の指標は、最近考案された非常に侵襲の少ない方法を用いて気道上皮液を採取してこれを分析することにより可能となりました。さらには、炎症や肺傷害を軽減する可能性のある薬剤を投与して、この予防効果を検討しています。


【C.グループメンバー紹介】
太田 周平(助教)
馬場 靖子(助教)
中村 京太(准教授)
大木 浩 (助教)
坂本 聖子(博士課程2年)


【D.参考文献】
Keratinocyte growth factor gene transduction ameliorates acute lung injury and mortality in mice. Hum Gene Ther. 2007 Feb;18(2):130-41.
High tidal volume ventilation induces lung injury after hepatic ischemia-reperfusion. Am J Physiol Lung Cell Mol Physiol. 2007 Mar;292(3):L625-31. Epub 2006 Oct 20.
Effect of lung-protective ventilation on severe Pseudomonas aeruginosa pneumonia and sepsis in rats. Am J Physiol Lung Cell Mol Physiol. 2004 Aug;287(2):L402-10.




 麻酔薬と痛みに関する研究 (紙谷義孝) 

 手術中は完全に意識がなく、刺激に対して反応しなかった患者さんが、手術後わずかな時間で意識を回復し、麻酔前と変わらない状態に急速に復帰していくのは、麻酔の研修を始めたころは、非常な驚きでした。麻酔薬は、可逆的に意識状態を制御でき、痛みに対する反応を強力に抑制します。しかし、これだけ広く長年にわたって使われているのにかかわらず、多くの麻酔薬がどのようにして麻酔効果をもたらすのかは、まだ十分解明されていません。また、私が救命救急センターで研修している頃は、ちょうど脳低体温療法が喧伝され始めた頃で、脳障害患者の治療に光明が差し始めたのではないかと期待しましたが、脳保護・脳蘇生に関しては臨床的に期待された成果が上がっていないのが現状です。私が神経系に対する麻酔薬の作用の研究を始めたのは有効な手立てがない脳保護、脳蘇生に麻酔薬がある役割を果たしているのではないかと考えたからです。

 神経細胞のイオンチャネル、受容体、細胞内情報伝達系が麻酔薬によって大きな変化を受けることが明らかになってきましたが、多種類の作用のうちどの作用が麻酔効果の出現に重要であるかはわかっていません。私たちは主にパッチクランプ法を用いて、受容体、イオンチャネルの機能変化を電気生理学的に直接測定し、麻酔薬の多彩な効果とその意義を分子、細胞レベルで研究しています。近年麻酔科医による麻酔薬乱用による死亡事故のニュースが日本でも話題になりましたが、麻酔薬がなぜ耽溺性を有しているのはに関してはよく分かっていませんでしたが、私たちのグループの研究からその一端が明らかになろうとしています。

 心筋では吸入麻酔薬が虚血耐性を獲得させることが基礎的・臨床的に確認されていますが、中枢神経系の細胞では見解が一定していません。神経系細胞の虚血耐性獲得のメカニズム、麻酔薬が心筋と同様に神経細胞にも虚血耐性を獲得させることができるのかを、電気生理・イメージング・神経科学の手法を用いて明らかにしようと研究しています。また、神経細胞に虚血耐性を獲得させる分子基盤についても研究を深めようとしており、そのメカニズムが明らかになれば、最近虚血性脳梗塞に対して臨床使用が可能になった組織プラスミノゲンアクチベーター(tPA)に加えて、脳梗塞の臨床に大きく貢献できるのではないかと考えています。

 これらの研究に加え、社会的に大きな損失となる難治性疼痛のメカニズム解明を目指した研究を立ち上げました。慢性疼痛の病態モデルを使って、新規の鎮痛薬や鎮痛法の開発を目指した基礎研究を行っています。主に、疼痛における各種イオンチャネル機能や、組織障害に伴い産生される蛋白質などの慢性疼痛機構への関与、グリアによる炎症反応の関与について本学神経解剖学、分子神経薬理学教室と共同で研究しています。いずれも小規模な研究ユニットで行われている研究ですが、徐々に成果を挙げつつあります。これらの研究によって、意識や疼痛受容の制御機構といった神経科学の重要課題の解明に役立てればと考えています。また、麻酔作用や鎮痛作用はあるが、他の副作用のない薬剤の開発に貢献できればと考えています。

 本学においてはここ10年近く私たちのグループが神経細胞に対するパッチクランプを細々と行ってきましたが、平成18年8月より神経内分泌学教授に就任された高橋先生と共同で研究を行うことにより、本学における神経生理学のよりいっそうの発展を目指して行こうと考えています。現在大学院生一人が神経内分泌学に学内留学しており、日夜研究に励んでいます。


【参考文献】
A1 adenosine receptor-mediated modulation of neuronal ATP-sensitive K channels in rat substantia nigra. Brain Res. 2006 Dec 8;1124(1):55-61.
Effects of barbiturates on ATP-sensitive K channels in rat substantia nigra. Neuroscience. 2006;137(2):573-81.
Effects of ketamine and propofol on inflammatory responses of primary glial cell cultures stimulated with lipopolysaccharide. Br J Anaesth. 2005 Dec;95(6):803-10.
Roles of the N-terminal domain on the function and quaternary structure of the ionotropic glutamate receptor. J Biol Chem. 2005 May 20;280(20):20021-9. Epub 2005 Mar 21.
Specific assembly with the NMDA receptor 3B subunit controls surface expression and calcium permeability of NMDA receptors. J Neurosci. 2003 Nov 5;23(31):10064-73.
Heteromer formation of delta2 glutamate receptors with AMPA or kainite receptors. Brain Res Mol Brain Res. 2003 Jan 31;110(1):27-37.
Cloning and characterization of a novel NMDA receptor subunit NR3B: a dominant subunit that reduces calcium permeability. Brain Res Mol Brain Res. 2002 Apr 30;100(1-2):43-52.
PKC-independent inhibition of neuronal nicotinic acetylcholine receptors by diacylglycerol. Brain Res. 2004 Jul 2;1013(1):125-33.
Effects of isoflurane and ketamine on ATP-sensitive K channels in rat substantia nigra. Neuropharmacology. 2004 Jun;46(8):1201-12.
Inhibitory effects of isoflurane and nonimmobilizing halogenated compounds on neuronal nicotinic acetylcholine receptors. Anesthesiology. 2002 Dec;97(6):1541-9.
Inhibitory effects of barbiturates on nicotinic acetylcholine receptors in rat central nervous system neurons. Anesthesiology. 2001 Apr;94(4):694-704.
Nonstereoselective inhibition of neuronal nicotinic acetylcholine receptors by ketamine isomers. Anesth Analg. 2000 Sep;91(3):741-8.
Dynorphins directly inhibit neuronal nicotinic acetylcholine receptors in PC12cells. Eur J Neurosci. 2000 Apr;12(4):1253-62.
Comparison of the effects of convulsant and depressant barbiturate stereoisomers on AMPA-type glutamate receptors. Anesthesiology. 1999 Jun;90(6):1704-13.
Depressant and convulsant barbiturates both inhibit neuronal nicotinic acetylcholine receptors. Anesth Analg. 1999 Jun;88(6):1406-11.
The effects of ketamine and propofol on neuronal nicotinic acetylcholine receptors and P2x purinoceptors in PC12 cells. Anesth Analg. 1999 Jan;88(1):174-80.
Inhibition of the neuronal nicotinic receptor-mediated current by kappa opioid receptor agonists in PC12 cells. Pflugers Arch. 1998 Nov;436(6):887-93.
Differential effects of thiopental on neuronal nicotinic acetylcholine receptors and P2X purinergic receptors in PC12 cells. Anesthesiology. 1997 Nov;87(5):1199-209.




 麻酔の作用メカニズムに関する研究 (菊地龍明) 

 全身麻酔薬の作用機序とは?麻酔薬により脳ではどのような変化が起こるのか?これは麻酔科医にとって興味深いテーマです。このテーマに対して私たちのグループではマイクロダイアリシスという手法を用いて実験を行っています。

 マイクロダイアリシスとは、文字通り半透膜からなる微小なプローブを用いて生体組織の細胞外液に含まれている物質を抽出する方法です。このプローブを脳の特定部位に挿入し、人工脳脊髄液で灌流することによって組織中の神経伝達物質を回収し分析します。マイクロダイアリシスの優れている点として、同一の個体で神経伝達物質の経時的な変化が追えること、動物を拘束せずに実験を行うことができるので神経伝達物質の変化と同時に行動の変化を観察できることが挙げられます。

 私たちは意識レベルや記憶と密接な関係があるコリン作動性神経に着目し、静脈麻酔薬による脳各部位のアセチルコリン遊離の変化を調べることから実験を始めました。その結果、一口で静脈麻酔薬といっても、その種類により、また、脳の部位により変化のパターンが異なること、その違いが臨床的な薬剤の特徴と合致していることを見出してきました。そして、加齢による影響、アルコール摂取との関係、アセチルコリン以外にNO代謝物の測定などに実験を発展させてきました。現在もマイクロダイアリシスの特徴を生かして、行動解析・高次機能解析と組み合わせた実験を展開しています。


【参考文献】
Chronic ethanol consumption does not affect action of propofol on rat hippocampal acetylcholine release in vivo. Br J Anaesth. 2004 Nov;93(5):737-9.
Opposite effects of depressant and convulsant barbiturate stereoisomers on acetylcholine release from the rat hippocampus in vivo. Br J Anaesth. 2004 Mar;92(3):424-6.
NOx- concentrations in the rat hippocampus and striatum have no direct relationship to anaesthesia induced by ketamine. Br J Anaesth. 2000 Feb;84(2):183-9.
Age-related modifications of effects of ketamine and propofol on rat hippocampal acetylcholine release studied by in vivo brain microdialysis. Acta Anaesthesiol Scand. 2000 Jan;44(1):112-7.
In vivo effects of propofol on acetylcholine release from the frontal cortex, hippocampus and striatum studied by intracerebral microdialysis in freely moving rats. Br J Anaesth. 1998 May;80(5):644-8.
Effects of ketamine and pentobarbitone on acetylcholine release from the rat frontal cortex in vivo. Br J Anaesth. 1997 Jul;79(1):128-30.
Differential effects of ketamine and pentobarbitone on acetylcholine release from the rat hippocampus and striatum. Br J Anaesth. 1996 Sep;77(3):381-4.




 血管収縮性に対する麻酔薬の作用に関する研究 (水野祐介) 

 麻酔において心血管作動薬は大変身近な薬剤です。しかし血管平滑筋の収縮、弛緩は多くの要因の影響を受け、その反応性は臓器によっても異なり各血管は固有の収縮特性を有しています。この各血管の特性は正常時と病的状態ではまた異なり、更に収縮状態においても内部の収縮メカニズムは経時的に変化して複雑な収縮機構となっています。

 現在、私たちは肺動脈にターゲットを絞り低酸素性収縮(HPV)のメカニズムの経時的変化をラット肺動脈リング標本を用いて検討しています。HPVにはカルシウム依存性、非依存性機構が共に関与しているとされますが、各々に複数のpathwayがあり経時的にも変化しています。HPV惹起中の細胞内カルシウム濃度、フリーラジカル種(ROS)、シグナル伝達における各種タンパク質のリン酸化状態等を測定することにより、カルシウム依存性、非依存性による収縮を見極め、カルシウム感受性亢進の有無を検討しています。更にシグナル伝達に関与する各種タンパクをin vivoで近年創薬のツールとして注目を浴びているRNA干渉法(RNAi)によってknock downさせ、各々の役割を解明すると共に肺高血圧の治療法の開発を目指しています。

 またneuropeptidesの肺血管抵抗における役割の解明を薬理学的、生化学的、分子生物学的手法を駆使して行っています。セロトニン、ノルエピネフリン、アセチルコリン等神経伝達物質の多くは血管作動薬でもありますが、血管における作用が十分に解明されていないneuropeptidesが多くあり、今後の研究が待たれています。


【参考文献】
ER stress disrupts Ca2+-signaling complexes and Ca2+ regulation in secretory and muscle cells from PERK-knockout mice. J Cell Sci. 2006 Jan 1;119(Pt 1):153-61.
Real-time evaluation of myosin light chain kinase activation in smooth muscle tissues from a transgenic calmodulin-biosensor mouse. Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Apr 20;101(16):6279-84.
Inhibitory effect of activated protein C on cerebral vasospasm after subarachnoid hemorrhage in the rabbit. J Cardiovasc Pharmacol. 2002 May;39(5):729-38.
Effective improvement of the cerebral vasospasm after subarachnoid hemorrhage with low-dose nitroglycerin. J Cardiovasc Pharmacol. 2000 Jan;35(1):45-50.



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